【読書】「福祉の最後の砦」!?
2009年 06月 24日
「過剰収容下の刑務所に次々と送られてくる受刑者を分類し続けながら、筆者が見た刑務所は「治安の最後の砦」ではなく、「福祉の最後の砦」となっている姿であった。」(「刑務所の風景」浜井浩一著)
刑の決まった人たちが待ち行列に入ると、それぞれ行き先の刑務所を決めて送り出さないといけないが(分類)、各刑務所では急増する受刑者にどこも定員大幅オーバーでアップアップしているにもかかわらず、一方で、「人を早くうちによこせ」という要請が引きも切らない状況だという。
つまり、日本の刑務所は、「少ない職員+刑務所内業務を分担する受刑者」によって運営される仕組みになっているので、「人材」がいないと困ってしまう。業務には、調理や、独房へ物品を配布するようなものから、ボイラー管理や散髪まで様々ある。受刑者の中で、高齢・病気・心身障害などによってこれらの業務を担当させることができない人の割合ばかりがどんどん増えてきて、慢性的「人材不足」に陥っているというのである。
中学受験生でもみんな覚える、憲法第25条
「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」
というのがあるが、私も子どものころは(^^;; だから当然、この日本で飢え死にする人とかはいないと思っていた。今はその究極の(はずの)セーフティーネットのほころびが気にかかっていて、「もやい」というホームレス支援団体のサポート会員に登録している。ボランティアも何もしないサボリ会員で、会費払って会報読む以上のことはしてないのだが。
この「もやい」のほうも、相談者のあまりの増え方に、ボランティアの増員も追いつかず、相談者の話をじっくり聞くこともままならない忙しさ、余裕がまったくない状態だそうだ。
どんな窓口も、老人ホームであれ、もやいのような市民団体であれ、生活保護申請の窓口でさえ、満員だから断ったり、資格条件などをつけて選別したり、水際作戦といって門前払いを食わせるなどの「技」を持っているわけだが、刑務所だけは、人を選ぶことも、断ることも、そして中にいる人を勝手に早めに出すこともできない。
だから本当にどんなところでも雇ってもらえなかったうえ、どの窓口にも受け付けてもらえなかった人が、どんどん刑務所に流れ込んでくる。刑務所の中では、受刑者を介護する受刑者も必要になり、それがまた足りなかったり、集団生活に適さない人を入れる独房も足りないという状況になる。
もちろん、出所したあとも当然生活の目処は立たず、戻るところは刑務所。そして、刑務所内で重宝されていたような「人材」もまた、刑務所にしか居場所・生きがいのある仕事がなく戻ってきたりするというから難しい話だ。当然刑務所には、そこに入って出てきた人たちが、今度はきちんと社会の一員となれるようにという機能が求められているはずなのだが…世間が、そこから出てきた人たちについて、たとえ働く能力があっても厳しいことについて筆者は「社会はリサイクル製品をあまり歓迎しない傾向が強い」という皮肉な注をつけている。
こんな状況では社会的コストも無駄にかさむばかりだし、日本全体の「幸せ総量」からいってもすごくもったいない…とは思うが、さりとて何をしたらよいのかさっぱりわからない。仕事がフルタイムでなくなった暁には(いつ?)「もやい」のボランティアに挑戦してみようか?
当面はまず、三人の子どもたちを、自分の力で稼げるように、そして、困ったときには助け合えるつながりを持つように育てることかな…
今日の弁当:
またろうが、撮影する前に弁当を持っていってしまったので、これはこじろうの弁当。
シュウマイ、卵、ブロッコリーを「まとめて」ヘルシオ蒸しするという手抜き調理。
三食たべられることがありがたいと思っていただきましょう。
by an-dan-te | 2009-06-24 07:37 | 生活 | Comments(6)
先行き不安な世の中ですよね、受験も自分達の頃は「希望」をかなえるためって感じ?でしたが、今は「将来の不安」から、何か手をうたずにいられないって感じの気がします。
こじろう君のお弁当はまたろう君のよりこぶり?ですか?運動部だから、そのうちもっと大きくなるのかな~?
目先の福祉関係の出費と犯罪によってかかるコスト、個人の被る迷惑とそれを排除した場合に排除された人が起こしうる社会的リスクを、冷静に検討する必要があるのですが、それを社会全体に訴えるのはとても難しいことなのです・・・。浜井さんの本で、少しでも世の中の人がそれを考えてくれると嬉しいなぁ。
アンダンテさん、読んでくれてありがとう。
いやこの場合、別に何も「なさって」はいないのですが…
子どもたちが大人になってどう生活を築いていくのか、そのとき社会がどうなっているのかはいつでも気になることです。
がんばったらいいことがある的な、イケイケドンドンな感じが若者からなくなっちゃったら寂しいですよね。
当初はお揃いの弁当箱を使おうとしたのですが(詰めるとき考えなくていいから)、それでは食べきれないといっています。今、やや背が伸び出したようなので、近いうちにすごく食べるようになると思いますけどね。
思い上がりか、とか思ったり、よかれと思ったことが
実は価値観の違いだったり、意味の無いことだったりするんじゃないかと思ったり。
でも、おそらく世の中っていろんな力関係でその瞬間瞬間バランスをとっているようでも、時系列的には徐々に変わっているはずで(どちらの方向かは分からないけれど)思って考えて行動したりお金を寄付したり、労働提供したりすることで変わる力になって
いるのかもしれない、とも思います。
ただ変化分が分かるようになるまでには、人の一生は短いかもしれないけれど。
私は仕事でも子育てでもボランティアでも、まずは自分が自分のために生活していくことが大事なんじゃないかと最近は思っています。
仕事でばりっとお給料もらって子供を育てて、微々たる余力で何か行動なりしたいなー。
..ってこのコメントは的外れかも(^^ゞ
> 福祉から旅立ってくれるのが本人にも社会にも幸せなのですが・・・
ほんとにねぇ。
浜井さんという方も、いろいろ工夫されたようですけど、なにしろそこでがんばっても後手な感じがしますよね。
> まずは自分が自分のために生活していくことが大事なんじゃないかと最近は思っています。
それはもぅ絶対そうだと思います。
それを見失うのはかなり危うい。宗教じゃないんですからね。
> ..ってこのコメントは的外れかも(^^ゞ
いえ全然。まずは自分が今、得意を生かしてできている仕事できちんと稼ぐとか、目先のことを大事にしたほうが、トータルできることの幅もきっと増えると思ってます。