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読書と中学受験   

元々読書好きな子と、そうでない子と。

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中学受験をするときに、それは、読書好きなほうがよいだろうと思うけれども、「よく本を読む」ということから受験の国語読解問題の得意に直結するかというとどうもそうとも限らないようで、それではせめて理科や社会の長文問題を読み取るのはどうかというとそれもやっぱり得意な場合とそうでない場合があるような気がする。

もちろん、読書が嫌いなよりはいいはず。元々嫌いで本を自主的に読むことは滅多にないなんて場合、やっぱり読解問題が不得意ってことは、まぁたいがい成り立つ(^^;;

実体験から学ぶという場合もそれこそ、どこに目をつけて自分の中に取り込むかは子どもによって様々であるのと同じように、同じ本を読んでもそこから吸収できるものは子どもにより様々。たとえば仮に、同じだけの本のセットを、見た目は同じように楽しんで読んだとしても、そこからごく自然に語彙を取り込む子もいれば、知らない語はそのまま華麗にスルーしてほとんど語彙が増えない子もいるだろう。

そのことは当たり前というか、しかたないことなのだけれど、もうひとつ気になるのは読書傾向のことである。

我が家の中でいうと、またろうとはなひめは読書好きであり、こじろうはそうではなかった。でも、はなひめの読書好きといっても、その読書傾向は激しく私の子ども時代とは異なる。

私が、物語から知識系(宇宙の話とか)、エッセイまで幅広く好きだったのと違って、はなひめの読書は著しく「物語」に偏っている。しかも、「いま(現代)、ここ(日本)」で書かれたものばかりだ。

物語であっても、翻訳もの…たとえば、赤毛のアン、ドリトル先生、ツバメ号とアマゾン号、ホームズ、ルパンなど…がほとんどないし、説明文的なものや、エッセイ的なものもない。

なんかこれってつまらないことのような気がする。せっかく、本というのは世界に、過去に開いた「窓」であって、「いま、ここ」を軽々と越えられるわけでしょう?

それを楽しまないというのももったいないんじゃないかなぁ?? と思うんだけれど。

でも、読書好きでない子に趣味で本を読むようにさせる、ってのもできないことながら、読書好きの子に、違う傾向の本を進んで読ませるようにする、ってのもできない相談で。親のできることってあんまりない(-_-;; せいぜい、食いつきがよさそうなネタで翻訳ものの物語を図書館から借りてきてそこらに置いてみるとか、小学校の読み聞かせボランティアのときはちょいとハズした傾向のものを読んでみるとか。

先日、「あこ」さんからいただいたコメントにもあったように、読書はしているけれど親が思うものとは違う感じ。

--- あこさんのコメントより:
結構入試問題にとりあげられるような本も読んでいましたが、親が読むと本当に軽い!ように思われるんですよね(まるで携帯小説のよう)。早々に配布された中学の国語の教科書にヘッセ作品が出て来て読んでいてこちらは感動していたですが当の本人はまったく興味持たず。小学校の先生に以前保護者会の時に聞いたことがあったのですが『時代背景が違いすぎるので難しいと思います。』って言われました。う〜ん、私の子供時代は確かに昭和だったけど充分明治の作品を面白くて何とも魅力を感じましたが‥。如何思われますか?
---

私は、残念だなとは思うけれど、なぜだかはわからないしどうすればよいかもわかりません。「時代背景が違う」ってのは、昔も今も同じことなはずで、だから背景が違う本を、どんどん読みたいと思うかどうかが問題、なんだけど。

ただ、中学受験の枠組みがあったことで、切り取りとはいえ様々な素材文に触れることができたから、そういう強制的(?)なものもよかったなと。入試直前になって、「外国もの」「古いもの」は読むスピードが足りず、苦労していたけど、それでようやく少し本腰入れて練習したんだものね。

あるいは、こじろうが中学生になってから、まぁ中学受験のおかげでいちおう読めば読めるようになったことで、自主的な読書も多少出てきたところへ、学校の課題図書でいろいろ読まされたのはよかったと思う。課題図書というか、なんか文庫本や新書がまんま配られて、次のテストはこれも範囲になるよとかそういうもの。これが、私がみてもへぇと思うようなあれこれ、幅広いもので、そうやって自分からは読まないようなものを読んでみるのもいい。

ま、そんなくらいかなぁ…大人がいまからできることって。あこさんがおっしゃっているヘッセ、私は中学時代ずいぶん読んだ。ヘッセのほかに、ドストエフスキーとか、ニーチェまで。その背伸び的チョイスは中二病のなせるわざとはいえ、それをそれなりに楽しめるのは、それまでの読書経験に支えられてのこと。はなひめが、いくら中二病になってもいきなりドストエフスキーにハマるとは思えない。

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by an-dan-te | 2013-03-31 08:14 | 中学受験 | Comments(25)

第六首: これやこの行くも帰るも(助動詞、連体形+助詞)   

これやこの行くも帰るも別れては
  知るも知らぬも逢坂の関

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リズムがよくて、読み上げるだけで楽しい歌です。「行く」と「帰る」が対になっていて、「知る」と「知らぬ」が対になっています。それで、「別れては」と「逢坂」はどうなのか…??

「逢坂の関」は滋賀県大津市にあった地名ではありますけど、その語感というか漢字から当然のことながら「逢う」を連想しますね。だから「別れる」の反対語としても用いられているわけです。こういう、特定の連想をさせる地名のことを「歌枕」といいます。前回の「宇治山」もそうです。

ところで「行くも帰るも」とありますが、この「行く」って…もちろん動詞ですが、何形ですか?

* * *

「行く」はカ行四段動詞なので

行か(ず) 行き(たり) 行く(。) 行く(とき) 行け(ども) 行け(。)

という活用をします。だから、「行く」といえば終止形か連体形の二択ですが、いずれにせよ、助詞「も」にそのままつくとは思えませんね。これ、実は「行く(人)も帰る(人)も」のように、省略されていると読むものなのです。こうやって、変な連体形が来て、その続きの体言が省略されている表現というのは古文に頻出します。テストでもよく聞かれます(^^)

次の「知るも知らぬも」も同様です。知っている人も知らない人も。

ここで、「知る」と「知らぬ」が対なんだから、当然「知らぬ」は「知らない」という意味ですが、この「ぬ」が今回話題の「助動詞」です。打消の助動詞の代表といえば「ず」ですが(情けは人のためなら「ず」)、この「ず」の活用ときたらこんな:

○ ず(して) ず(。) ぬ(とき) ね(ど) ○
「ずずぬね」!? なんじゃそりゃー!! さっぱり理解不能なパターンですが、なにしろともかく打消の助動詞ですからね~しょっちゅうお目にかかってるうちに、嫌でも慣れますよ。「ずずぬね」です。以後お見知りおきを。

やっかいなのは、この「ぬ」という「顔」がほかの助動詞とかぶってることです。「夏は来ぬ(きぬ、と読む)」といったら夏が来たという意味、つまり完了の助動詞「ぬ」なのですが、「来ぬ(こぬ、と読む)人を」といったら打消の助動詞「ず」の連体形で、来ない人を待つとかいう話になります。

未然形+「ぬ」  →打消「ず」連体
連用形+「ぬ」  →完了「ぬ」終止

この歌では「知ら」が未然形ですから、否定のほうの「ぬ」だってすぐはっきりわかりますけどね。「来」と漢字で書かれちゃったら、「き」と読むのか「こ」と読むのかわからないと、何形だか決まらないじゃないですか。そういう場合は、別の手がかりを探していくことになります。

大丈夫かな? 今、大丈夫じゃなくても、打消「ず」も完了「ぬ」もこれから何度も出てきますから、そのたびに「ほぉ~」と思ってくださいね。そのうち納得できます。

[訳読]
これがあの(話に聞く)、行く人も帰る人も、知る人も知らない人も、別れては(また)逢うという逢坂の関(なのだなあ)

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by an-dan-te | 2013-03-30 07:29 | 中学生活 | Comments(7)

第五首: わが庵は都のたつみ(句切れ、掛詞)   

わが庵は都のたつみしかぞ住む
  世をうぢ山と人はいうなり

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前回の復習ってことで、まずはサラリと係り結びを見つけてください~

* * *

「ぞ」「住む」ですね。簡単です。「住む」は終止形と同じにみえますけど「ぞ」を結んでるからには連体形です。しかしともかく、つまりは「住む」までで文が完結してしまっているわけです。こういうのを「句切れ」といいます。この場合は「三句切れ」(五・七・五・七・七のまとまりでいって三つ目の句までで切れている)ですね。訳読のときにはココで「。」をつけて明示します。

ここまで第一首~第四首には「句切れ」がなかったですね。でも、句切れのある句もかなりポピュラーなので、どっちがどれだけ多いかは知りません(^^;; 暇な人は数えてみましょう(?)

「しか」は「このように」という意味の副詞。「このように住んでいる」を「ぞ」で強調しているのですね。何か、自信というか、きっぱりした雰囲気が感じられます。

そして「世をうぢ山と」のところが、この歌の凝ってるところです。「世を憂しと」思うことと「宇治山」を掛けているのですね。こういうのを歌の世界では「掛詞(かけことば)」といいます。なにそれ、ただの駄洒落じゃん!! というご意見もありましょうが、三十一文字(みそひともじ)の限られた枠の中で、これがあることで表現の幅がぐっと広がっているように思います。このあともいろいろ出てきますからお楽しみに。

さて、「句切れ」「掛詞」と、歌の技法で重要なのが二つも出てまいりましたが、あと、文法事項として押さえておきたいのが助動詞の「なり」です。

助動詞って、実は古文の文法を勉強していく中で大きな山場なんですね。

助動詞は、用言にも体言にもついて多種多様な意味づけをしますが、そのとき前が用言だったらその活用形を支配します。しかも、自身も活用するし活用パターンも様々、ってことで混乱しやすいのです。逆にいうと、助動詞を百人一首でゆるゆると慣れて攻略してしまえば、大学受験まで古文はまるっと困ることナシです(^^)

でも今回の「なり」はわりと馴染みやすいですよね。漫画のキャラクター(例: ちょんまげロボットのコロ助)とかでも「~ナリ」って使いますもんね。ただし、漫画で出てくるのはたぶん、「断定」の意味の「なり」です。ここは「伝聞」です。「音(ね)あり」がなまったとか、「鳴り」からきたとか言われますが、ともかく「音」から推定する、あるいは伝聞した内容とかを意味します。

「なり」と「い段」で終わっていますがこれは終止形です。ラ変と同じ活用パターンです。この語について文法的に説明するには、「伝聞の助動詞『なり』の終止形」というふうにいいます。ノートに略記するときは「伝聞・なり・止」と書けばよいでしょう。ちなみに、この前の動詞「いふ」も終止形(ハ行四段活用)です。「なり」は(主に)終止形に接続する助動詞です。ま、助動詞については、いっこずつ、ゆっくり見ていきましょう。

「人はいふなり」というんだから、自分はそう思ってない。あくまで、心穏やかにここで過ごしているだけなんだけれど、世間の人は憂き世から逃れるために隠遁生活してるっていうんだよね、というような。

[訳読]
私の草庵は都の東南(にあり、)このように住んでいるのだ。(しかし)世を憂いて宇治山(に住んでいる)と世間の人は言っているようだ。

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by an-dan-te | 2013-03-29 21:15 | 中学受験 | Comments(2)

第四首: 奥山に紅葉踏み分け(係り結び・形容詞シク活用)   

奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の
  声聞くときぞ秋は悲しき

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一気に秋の歌で季節外れですが、前回の復習でとりあえず形容詞を探してください。

* * *

といっても、まぁそりゃ「悲しき」一択ですよねさすがに。でもちょっと「あれっ?」と思いませんか。最後なのになぜ「悲しき」なんだろうって。

悲しく(ば) 悲しく(て) 悲し(。) 悲しき(とき) 悲しけれ(ども) ○

「悲しき」というのは、「悲しきこと」のように、体言につながる形(連体形)です。言い切りの形なら「悲し」のはずですよね…

これが、古文文法テスト頻出問題の堂々トップにランクインする、「係り結び」の例です。この場合「ぞ」が係助詞なのですが、それが係る先の「悲し」を連体形に変化させて結ぶのです。

要するに、係り先に目印をつけるようなもので、なかなか便利な表現じゃないかと思うのですが、現代文にはそれに相当するものがありません。いつの間に廃れちゃったのでしょうね。

とにかく「ぞ」「なむ」「や」「か」があれば連体形で結ぶ。「こそ」があれば已然形で結ぶ。というこのマーキングが係り結びです。意味としては、強意・疑問・反語などがありますが、ここは強意。

秋がとっても悲しく感じられるのです。人里から離れた深山で紅葉を踏み分けて鳴く鹿、晩秋に雄鹿が雌を求めて鳴くということらしいのですが、寂しく悲しいのは鹿か自分か。

「ぞ悲しき」の係り結びで悲しさを強調して、さらに強調しているのが「は」です。「秋は」、つまり、ほかとは違う、取り立てて秋が悲しいのだといっているのですね。

文法上のポイントとしてはもうひとつ。「悲し」の活用が、「なし」と違うってことです。
なく(ば) なく(て) なし(。) なき(とき) なけれ(ども) ○
悲しく(ば) 悲しく(て) 悲し(。) 悲しき(とき) 悲しけれ(ども) ○

「悲し」のほうも、前回覚えた(←たぶん)「く・く・し・き・けれ」がついているのですが、「く・く・き・けれ」がつくときに、「し」が残ったまま、というのが違います。このパターンを、やはり未然形の「しく」を取って「シク活用」といいます。違うといっても、「く・く・し・き・けれ」だけわかっていれば、あとは「し」が残るってことでいいんですけどね。形容詞を活用で分けると二種類あって、ク活用さんと、シク活用さんがいるのです。

ついでに動詞の復習をしてしまいましょう。
「踏み分け」カ行・下二・連用…「踏み分け鳴く」と用言につながっているからそりゃ連用形。
「鳴く」カ行・四段・連体…「鹿」と体言につながっているからそりゃ連体形。
「聞く」カ行・四段・連体…「とき」と体言につながっているからもちろん連体形。
ということで別に難しいところはありません。下二段は、現代語とかなり違う活用なので、折にふれて練習しておくといいですね。

踏み分け(ず) 踏み分け(たり) 踏み分く(。) 踏み分くる(とき) 踏み分くれ(ども) 踏み分けよ(。)

口で言ってみたときに違和感のないように、言い慣らしておくとよいです。

訳読のときは、「は」と係り結びの強調を盛り込みます。

[訳読]
奥山で紅葉を踏み分けて鳴く鹿の声を聞くときこそ秋はとりわけ悲しい。
(「は」を「とりわけ」と入れて、「ぞ」を「こそ」と入れました。)

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by an-dan-te | 2013-03-28 07:47 | 中学生活 | Comments(6)

どう転んでも社会科、なのかもしれない   

「「低学年のうちに実体験を」をどう考える」という記事の中で、「料理しても買い物しても散歩しても旅行しても、どう転んでも算数理科社会に結びつきます」と書いたのですが…


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ほんと、日常生活のことあれこれ、何でも切り口によっては理科に、あるいは社会に結びつきます。ただ、親の素養が欠けているとどうにもうまく語る・語り合うことができず、なんとなく子どもも疎い感じになっちゃったりします。

けどね。せっかく、今回の中学受験で私もよいきっかけをもらったことであるし、私自身が一生、社会科に疎いまんまで過ごさなくてもいいんじゃないかって。

そう思っていたら、ジャストこんな本を見つけました:
「どうころんでも社会科」清水義範、え・西原理恵子(講談社文庫)

この本、内容は地味な「社会科エッセイ」なんですけど、「毎日かあさん」の西原さんが挿絵と漫画を入れることによって、なんだかつい手に取ってしまいたくなる本に仕上がっているんです。とはいえ、それで「つい」読んでしまうとこれがけっこうおもしろいので、騙された(?)甲斐があったって感じですかね。

たとえば、沖縄料理っていうと、昆布をたくさん使うイメージでしょ? でもよく考えてみたら、昆布が取れるところって、もっとはるか北のほうじゃないですか。ぶっちゃけ北海道ですよね。なのになんで、昆布をじゃかじゃか使う料理が、沖縄の伝統料理ってことになっちゃってるの?? とか。

結局、どこかの時代で海運ルートが北から沖縄までつながっちゃったわけなんだけど、この壮大な話の中にキーポイントとして出てくるのが、貧しいもんだから薬売りで稼ぐようになった富山藩とか、同じく貧しいどころか大借金で起死回生のバクチを打つしかなくなった薩摩藩とか、そういう貧しいつながりの藩。そして沖縄に昆布が届くまでのストーリーは感動モノなんです。

ごく身近な話から、社会科ワールドが広がっていくんですね…

あるいは、著者が、福岡の屋台でラーメンを食べていたら、居合わせた四人客が(エリートコースに乗った)自衛隊員だったとかいう話。彼らは、勤務地はバラバラだけど、たぶんみんなそこいらへんの出身で、友人の結婚式に行った帰りだったらしい。それで、著者とその四人が「うまいですな」「博多は初めてですか」みたいななにげな会話を始めるわけですが…

(え、いつになったら社会科の話よ、とお思いでしょうが。)

四人それぞれなかなかかっこよかったんだけど、特に惚れ惚れするようなイケメンくんがいて、その人が「自衛隊に、九州出身者が占める割合はかなり高いんですよ」といっていたそうです。

それで、詳細は本を読んでいただくとして、福岡のあたりというのは、古来、外国からの玄関口であって、云々と…

ちゃんと、「どうころんでも」歴史へ、地理へと話がつながっていくわけです。

この本は、たいしたまとまりもなく、タラタラと続くエッセイ調の本に見えつつ、今まで社会なんてキライと思っていた大人にも意欲関心を起こさせるつくりになっているのです。

社会音痴を自認する大人の方で、でもこれからお子さんに社会についても語り合えるようになりたい人にお奨めです(注: 子どもに読ませる本ではありません)。

え?? 外国に近いというのはわかったけど、その自衛官がイケメンであることと社会科にはなんの関係が、って?? (^^;; まー、そうカタイこと言わず。

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by an-dan-te | 2013-03-27 21:18 | 中学受験 | Comments(14)

第三首: ひさかたの光のどけき(形容詞・ク活用)   

ひさかたの光のどけき春の日に
  しづこころなく花の散るらむ

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ジャスト季節に沿った歌といえばこれですね(^^)

「ひさかたの」というのは枕詞といって、次の言葉「光」を引き出しているだけで大した意味はないことになっています。「あおによし」奈良とかそういうのですね。でも、「ひさかたの光のどけき春の日」というと、枕詞がないよりもやっぱり、なんとなくうらうらとのんびり明るい雰囲気が伝わるような気がします。

今回のテーマは形容詞です。形容詞を探してみてください。二つあります。

* * *

「のどけき」と「なく」が形容詞です。なんだか、形容詞には苦手意識を持っている人が多いような気がします。それは見た目の「顔」が場面によってあんまり違いすぎて、印象が定まらないからなのかなと思うのですが。

「のどけき」の活用はこんなです:
のどけく(ば) のどけく(て) のどけし(。) のどけき(とき) のどけけれ(ども) ○

何がわかりにくいかというと、「く」「き」「けれ」とか、カ行なのかな~と思ったのに、終止形がいきなり「し」という、ここに「許せない感」が漂ってるんでしょうね。活用語尾は「く・く・し・き・けれ」。この、「くくしきけれ」だけ何度も唱えてみてください。未然形のときの「く」を取って、「ク活用」と呼ばれています。「く」「けれ」のところは現代語も同じです(「白く(ない)」「白く(て)」と「白けれ(ば)」)。連体形(「白き衣」など)は古めかしい言い方としてわりとお馴染みだし、要するに終止形が「し」で終わることにさえ慣れればだいたいクリアです。

「のどけき」は「春の日」という「体言(名詞)」にかかっているので連体形です。

命令形のところの「○」は、命令形がないことを示しています。ク活用には、命令形がないんです。

…でも、形容詞だからって、命令形がないってことはありませんよね。ほら、百人一首の中にも「はげしかれとは祈らぬものを」ってあるでしょ。「はげしかれ」は形容詞の命令形です。形容詞には、ク活用にカリ活用と呼ばれているものがセットになっています。その話は別の歌でカリ活用が出てきたときにしますね。

ところで「のどけし」ってなんか現代人的には違和感がありませんか? だって、今でいうなら「のどかだ」でしょ。のどかな春の日。形容詞ではなくて、形容動詞ですよね。でも明らかに同じ語源っぽいのですが…。いつの間に品詞が変わってしまったんでしょうかね。

「なく」のほうは問題ないですよね。基本的には現代にも生きる形容詞です。
なく(ば) なく(て) なし(。) なき(とき) なけれ(ども) ○

「しづこころ」は「落ち着いた心」「静かな心」で、「しづこころ」がなく花が散っていく、と。「なく」の次は「花」という体言ですが、「なく」は花ではなくその先の「散る」(用言・動詞)にかかっているので連用形なのですね。ところでこの「花」はなんかテキトーな花ではなく、ばっちり「桜」のことです。詞書(ことばがき)に「桜の花のちるをよめる」となっていますので明らかなのですが、この時代で断りがない限りはぶっちゃけ「花」といったら「桜」です。まぁ、日本人として、その気持ちはわかりますよね。

この歌の最後に「らむ」があります。これは推量の助動詞で、終止形「散る」に接続しています。目の前に見えていないものを推量するときにも使うのですが、この場合、桜が散ってるのは見えてて紛れもないので、散っていることを推量しているのではなくて、なんで散ってるのという疑問を表していると取るのが一般的です。

けど、桃尻語訳(by 橋本治)では、疑問ではなく、「現在の事象についてその原因・理由を想像・推量する」ととっているようで、こうなっています。
「ひさかたの光しずかな春の日に落ち着かなくて花は散るのさ」

私の「訳読」は一般的なほうで書いておきます。

[訳読]
(日の)光がのどかな春の日に、落ち着いた心がなく桜が散るのはなぜだろうか。

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by an-dan-te | 2013-03-27 13:02 | 中学受験 | Comments(4)

第二首: 小倉山峯のもみぢ葉(確定条件/仮定条件)   

小倉山峯のもみぢ葉心あらば
  今ひとたびのみゆき待たなむ

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第一首ではまず動詞を中心に説明してみました。この歌にも動詞が出てきますので、復習を兼ねて、まず動詞をすべて抜き出してみてください。「○行○○活用の○○形」までつけていただければさらにポイント高いです(^^)

* * *
どうですか? 動詞は「あら」と「待た」の二つです。抜き出しまではいいかな? それと、「ら」とか「た」とか、「あ段」だからそりゃたぶんどちらも未然形だろう、というところまではわかります。

「待つ」のほうは、現代語から考えても違和感がないので活用も大丈夫でしょう。タ行四段活用です。
待た(ず) 待ち(たり) 待つ(。) 待つ(とき) 待て(ども) 待て(。)

「あら」のほうはどうでしょうか…
あら(ず) あり(たり) ある(。) ある(とき) あれ(ども) あれ(。)
…いやいや。「ある(。)」じゃ、現代語になってしまいます。「人生、ここにあり!」というような感じで、終止形は「あり」になります。

あら(ず) あり(たり) あり(。) ある(とき) あれ(ども) あれ(。)
というわけで、これは四段活用ではなくて「ラ行変格活用」、略して「ラ変」です。

「四段」「上二段」「下二段」がポピュラーな活用だとすると、「ラ変」はその名のとおり変わりものです。終止形のところだけが変な活用。誰ですか、そんなごちゃごちゃ出てきたら覚えられない、なんて嘆いてる人は。

だいたい、自然言語って、使われるうちに擦り切れますから、よく使われる語ほど、なんだか不規則ってこと、ありませんか? 英語の不規則動詞みたいなものです。つまり、不規則で、でも知ってなきゃいけないようなものなら、いやっちゅうほど何度も出てきますから、「あら、また出た」と思って眺めているうちに、そのうち慣れて、覚えたのと同じことになります。不規則で、しかも滅多に出現しないようなものだったら…知らなくっていいです(^^;;

言葉ってそういうものです。だから別に無理して「暗記」しなくていいと思うんですよね、必要なことはそのうち「慣れ」ますから。私はそう思うんで、暗記が超キライで苦手なのに語学とは相性がいいんです。このへんは、人によって考えが違うみたいですけどね…

話が横道に逸れましたが、「ラ変」は「あり・おり・はべり・いまそかり」くらいしかないというレアものですが、その分、登場頻度は半端なく、存在感を十二分にアピールしています。今忘れても、また出てきますから大丈夫です。

ともかく、「あらば」は「未然形+ば」なので、第一首に出てきた「みれば」(「已然形+ば」=確定条件)と違って、仮定条件を表します。現実にはまだ起きてないこと、となります。

それはそうですよね、「もみじの葉に心があるならば」なんて。「みゆき」は「行幸」で、天皇がいらっしゃることです。心があるならば、天皇が今度来るまで、散らないでくれ、というわけです。

ちなみに、「一冊でわかる百人一首(成美堂)」から、この歌の解説を引用しますと:
「大堰川に御幸された宇多上皇があまりに見事な紅葉を目にして、息子の醍醐天皇にも見せたいとおっしゃったことから、お供をしていた藤原忠平が、その気持ちを代弁して詠んだという。」
とあります。

「御幸」と「行幸」はどちらも「みゆき」と読めますが、前者は上皇や法皇、後者が天皇のことだそうです。そういやそんな話がありましたね(すっかり忘れていました)。

歌の最後の「なむ」は願望を表す終助詞です。なにしろ「願望」(今起こってないこと)ですから未然形につくのも納得です。

[訳読]
小倉山の峰のもみじ葉よ、心があるならばもう一度の行幸を待っていてほしい。

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by an-dan-te | 2013-03-26 17:54 | 中学生活 | Comments(4)

第一首: 田子の浦にうち出でてみれば(動詞)   

田子の浦にうち出でてみれば白妙の
  富士のたかねに雪は降りつつ

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海のそばから富士山を見上げたときの、鮮やかな白が浮かぶ美しい歌ですね。この歌で、動詞の活用について確認してみましょう。

動詞にあたる部分を抜き出してください。

* * * (←続きを見ないで考えるといいよ、のサイン)

動詞というと、現代語でいえば「歩く」とかそういう語ですね。ここでは「うち出で」「みれ」「降り」の三つです。この三つは、活用のパターンがそれぞれ違うんですよ。それぞれ「下二段活用」「上一段活用」「四段活用」といいます。「四段活用」は最もポピュラーな活用です。現代語では五段活用というのがありますね。

降ら(ない) 降り(ます) 降る(。) 降る(とき) 降れ(ば) 降れ(。)
未然 連用 終止 連体 仮定 命令

古典の「降る」は四段活用になります。

降ら(ず) 降り(たり) 降る(。) 降る(とき) 降れ(ども) 降れ(。)
未然 連用 終止 連体 已然 命令

違うところは、「仮定(起こっていないこと)」に対して「已(すでに)然(ある)」という形があることです。違うのはそこだけ…

あ、あと、もう一点あります。現代語の活用では、未然形に「降ろ(う)」(←意味上、ふつうないけど)というのがあって、「らりるれろ」つまり「あ段」から「お段」まで五段揃ってます。古文だと「お段」がなくて四段活用なんですね。

「うち出で」は「で」「づ」の(下のほう)二段しか使わないから下二段活用
うち出で(ず) うち出で(たり) うち出づ(。) うち出づる(とき) うち出づれ(ども) うち出でよ(。)
「うち」は調子を整える働きをするもので、意味はあまりありません。訳読のときには、省略可です。

活用を確かめるときには、この、括弧内もいっしょに読んでみるとわかりやすいです。そんなに暗記を気張らなくても、「えーと、『ず』につくには…」「うち出でず、か」とわかるようになればOKです。

要するに、「○○形」のどれになるかは、その続き(接続)によって決まるのです。この歌でいうと、
「うち出でて」と「て(接続助詞)」につながるから連用形。現代語でも、「朝起きて、歯を磨いて…」と、「て」につながるときには連用形ですからおんなじです。

「降りつつ」と「つつ(接続助詞)」につながるのも連用形ですね。これまた現代語と同じです。ここで「つつ」は継続を表します。降り続いているのです。

現代語と同じものは「あっそう」で、する~りと終わらせてかまいません。気をつけるのは、現代語と違うところ。「みれば」です。「みれば」って現代語でもいいますが、意味が違います。なにしろ、現代語では「仮定形」ですが古文では「已然形」ですからね。活用パターンは上一段で現代語と同じなのですが…

み(ず) み(たり) みる(。) みる(とき) みれ(ども) みよ(。)

古文で「みれ(已然形)ば(接続助詞)」といったら、仮定ではなく確定条件の「ば」です。だから訳は「みると」になります。決して「みれば」って書いちゃダメだよ。ここ、テストに出ます(ほんとう)。

[訳読]
田子の浦に出て(遠くを)見ると真っ白い富士の高嶺に雪が降り続いている

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by an-dan-te | 2013-03-26 07:34 | 中学生活 | Comments(10)

開講!! 百人一首で学ぶ古典文法   

ずっとやりたかったんですよ~。私の原点、みたいなもの?

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専門でもなんでもないんですけど、素人ですけど、でも自分の「飯の種」の根っこはココ。

私が、中三のときに国語の授業で教わって感動したような、平易にまとまった文法の本はないものか、子ども(主にこじろう)のために探してみましたけど、これだと思うようなものは見当たらず。

いっそ自分で書きたいと思っていました。でもここまでは「中学受験」ネタで毎日いっぱいいっぱいで書くスキがなかったので(^^;; ようやく書こうかな? と思っていたところへ、よいきっかけをいただきました。古典が超苦手な高校生からの、家庭教師依頼です。

日にちがまだ決まってないんですけど、とりあえずブログに少しずつまとめていって自分の頭を整理しておこう、という寸法です。対象は…そうですね、ちょっと先取りしたい中高一貫校中学生か、古典が苦手な高校生かな。

百人一首を使って文法学習する場合にお奨めのノートの作り方をご紹介しておきます。

まずふつうの大学ノートと、それから三色ボールペン。
大学ノートはふつう、横罫ですが、90度向きを変えて、縦罫として使います。

f0185839_2152472.jpg

まず黒で、ページ右端に歌を書きます。二行にわたると思いますが、行と行の間は、二行か三行空けておいてください。一ページに一首です。左側は広々と、文法事項のメモのために空けておきます。

赤ペンで「品詞分解」を書き、  …歌の右側
青ペンで「訳読」を書きます。  …歌の左側

この赤(品詞分解)と青(訳読)が、「百人一首で古典文法」のミソです。

「訳読」は、いわゆる「現代語訳」とは違います。現代語訳は、平たくいうと、現代に生きる私たちが、その訳を読んで、当時の人が歌から受け取ったイメージと同じものを受け取ることができるっていうのが理想になります。うまい意訳のことです。でも、「訳読」はそうではなくて…

学習のための直訳です。原則として言葉を足さず、削らず、愚直に訳していきます。どうしても意味が通じないところだけは補足します。

ま、カタイ話はこれくらいにして。早速、いってみましょう!! (つづく)

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by an-dan-te | 2013-03-25 22:04 | 中学受験 | Comments(4)

「低学年のうちに実体験を」をどう考える   

塾の先生からよく言われることの中に「低学年のうちに実体験をさせてください」というのがあるけれど、それをどう考えたらよいか、というご質問をいただきました。

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実は、私自身は塾の先生からそう言われた覚えがないんです。それはたぶん、うちがそもそも低学年のうちに日能研に顔を出してないからじゃないかと思いますけど(^^;; だってもうすぐ五年になろうってころにようやく行くんだから低学年もへったくれもないですよね。

むしろ、理科の先生が、「実物を見せることで理解・定着を図っていきます」と、日能研の授業の良さをアピールしていました。顕微鏡とか、ガスバーナーとか触らせるって。

確かに、あのガスバーナーの手順って、空気調節ねじとガス調節ねじがあって、その回す順序とかありますけど、あんなのをテキスト上だけでみてハイ覚えなさいったって、ねぇ。ちっともうれしくありません。だから習うとき触れるに越したことはないと思いますけど、まぁ実際のところ、日能研の授業中ではそんなにしっかり時間が取れるわけではないので、ちょっと半端な扱いだったみたいです。ないよりはいいという感じかな。

テキストにはいろいろな実験が図として載っていますけど、塾授業の中でこれをすべて体験することはできないでしょう。けれど、それでは低学年のうちにご家庭でといわれても、できるものは限られていますし、仮に器具などを買ってきて実験したとしても、理解が追いつかないものも多いと思います。五年・六年の学習をする中で組まれている実験ですから、低学年で見たからって心に響くとは限りません。

ただ、「ぱっと色が変わった!!」とか楽しくても、意味不明じゃ、ディズニーランドいってエレクトリカルパレードみるような娯楽と変わりません。

低学年では、その後に習うことを網羅するようなことは考えず(どうせできないし)、ただただ生活上に無理のない範囲でいろいろなことを体験しつつ…理科実験をしなくたって、料理しても買い物しても散歩しても旅行しても、どう転んでも算数理科社会に結びつきます。何をやっていてもいいのですが、それについて大いに語り合うというのが親のすべきことではないかと今では思っています。

「今では」というのはどういうことかというと、私はこれを十分にしてこなかったからです(-_-;;

なんかいつも生活に追われていて、特に長男のあれこれに気を取られていて、こじろうやはなひめの言葉に耳を傾けてきませんでした。意味のある対話が不足していました。

幸い、中学受験という、便利にパッケージ化された仕組みの中で、低学年のうちに実体験と対話から学ぶべきことのかなりをキャッチアップすることができました。こじろうもはなひめも、「紙」という形で抽象化されたものから学ぶことがあまり下手ではないタイプだったのもよかったです。「具体」にとことん強く、そこからでなくては学べないタイプの子だったら、我が家ではもっとスポイルされていたと思います。

体験は何でもいいのですが、それが意味を持ったり定着したり、別のことに思考を使えたりするのは、言葉を通してです。体験のあとに対話がないものは、すべて曖昧模糊として流れていってしまいます。

丁寧な対話が不足していたと思う我が家ですが、親の素養の関係から、特に「社会」関連が圧倒的に不足して、逆に「理科」関連はそこそこ養えていたようです。そういう面を考えると、親が疎い分野について「低学年のうちに実体験」を生かすのってかなり難しいですね。

今の小学校では、昔(私が子どもだったころ)に比べて、ずいぶんいろいろな実体験(見学や実験など)を積ませてくれます。贅沢なくらいです(^^) でも、それを「言葉」「思考」にする十分な時間やスキルがないため、もったいなく消えていきます。もしご家庭で、学校で得た体験の言語化の部分を手伝えたら、それもひとつお得な方法かもしれません。

(流れてしまった実体験がすべて無駄になっているということではないのですが、知識や思考として役に立たないという意味です。「心を耕す」「抵抗感を減らす」とか別の面からすれば無意味ではないでしょう)

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by an-dan-te | 2013-03-24 09:31 | 中学受験 | Comments(13)