均質性の中の多様性に価値がある理由
2012年 04月 17日
←大学受験の勉強法について書くつもりがえらく脱線してますが
…と、いうことを、先日の「均質な集団の中で際立つ多様性」を書いていて突然はっきり思い出したんですけど。
一時期、迷路の本にハマっていて、Fさんと二人で教室の後ろのほうに移動して陣取り、両方からダーッとたどっていって開通!! なんてことをやってました(^^;; そんなアホな遊び方で盛り上がるのって、ほとんどそりゃ、恋人どうしみたいじゃありませんか。
私はFさんに「心酔した」と書きました。私はFさんのことをとても尊敬していて、たぶん、Fさんも私のことを尊敬していたように思います。お互いに、自分にない優れた部分を見て、「すごい」と思っていたわけです。これが、一本のものさしではない、多様であることの価値です。相手に惚れる。相手のことがいくらでも知りたくなる。いくらでも時間をかけて言葉を交わし、それでもまだ足りない思いで、さらに言葉を求めていく。
これは、「恋」です。同性なのでふつうは恋と呼びませんが、それにかなり近いものです。
思春期には、同性の友人とこうして濃密なチャネルを通して交信し、たくさんのことを学んでいくことが多いものです。心理学のほうの表現では、親友は自分を映し出すための「鏡」であるというようなことをいうらしいですが、要するに、人が何かをよく学ぶことができるときっていうのは、相手に心酔しているときであり、そういう相手に自分を映しながら、結局自分が必要としていることを学んでいくということです。
私にとってそれは、駿台で会ったFさんであり、JGで会ったyoyoさんであったわけです。
そこまで深くはなくても、いろんな人と「この人はすごい」と思いあう関係を結び、その交信の中から学習していくのです。ポケコンでのプログラミングなどを教えてくれた彼も、比較的軽くはあるけど、そういう関係ですね。
むしろ、学生時代、先生から学ぶことより、友人から学ぶことのほうが多いというか大きいかもしれません。
このような「友人から学ぶこと」、ピアの教育力というものを考えていくと、おのずと私がこないだの記事の最後で立てた問い:
「多様性ということをいうならば、公立中のほうがもっともっとあったはずなのだが、なぜそこからはあまり学ぶことができなかったのだろうか?」
の答えも見えてきます。
つまり、「すごい」と思いあい、心酔するという、チャネルがまず成立する必要があるわけですが、それにはある程度の均質性が必要になる。あんまり、接点がなさすぎ、かけ離れすぎていたら交信できない、周波数が合わないんです。
公立中では、チャネル成立の対象となる相手が見つけにくい(少ない)。だから、その中の多様性といっても限られていて、選ぶ余地があんまりないんです。それでもたまたま合う人に会える確率もあるはずですが。
そして公立中の場合、私にとってはもうひとつの問題点がありました。それは、女子どうしのパワーバランスゲームとの折り合いの問題です。男子はまた別の世界を築いていたと思いますが、女子どうしはお互いの距離感や力関係を絶えず気にかけ、バランスをとろうとしつつ過ごしています。誰かと強力なチャネルを結ぶことは、そのほかの人との関係のメンテナンスがお留守になる危険と、そのチャネルが何かの理由で壊れたときに一気にバランスを崩す危険を持っています。バランスが崩れると強烈ないじめが発生します。
そんな感じに、あるとき私は失敗をして大きくバランスを崩し、それ以降いじめのターゲットとなったことがありましたが、公立中ではいつもそういう緊張感の中でうまく乗り切っていかなければいけないのです。こういうことが、さらっと上手にできる子もいると思いますが…
JGに行ったら、私がいくらyoyoさんとかかずらわっていようが、だーれも人のことは気にしないし、リラックスして自分がやりたいように振舞うことができました。効率よく学びの場が機能するためには、まずは平和が第一条件ですね。これも、均質性と深いつながりのあることです。
にほんブログ村 中学受験 ←ランキング参加しています。
にほんブログ村 中学受験(日能研) ←こちらも参加しています。
by an-dan-te | 2012-04-17 12:37 | 中学受験 | Comments(16)
影響を与えてくれた友人に感謝しています。
中学のときはいきなり女の子からいじめの対象になったことがありました。
社会人向けの本に何かに向かって努力している人とそうでない人ではエネルギー量が違う。同じ量のエネルギーを持った人と仲良くなると書いてありました。
そういう言葉は思いつきませんでしたが、これは大事なことかも。
中高時代が遠い昔の私ですが、均質な集団というのは今の生活にもおおいに当てはまると思います。
家庭の中の自分、仕事場での自分、子ども関係のつながりの中の自分、生活をしていくうえでやはり周波数があうというか、チャネルが成立するというか、そういう方々との付き合いが多くなってきますね。
大人になってからは、そういった環境が自分で選べたり構築したりできますが、子どものうちはある程度親がサポートしないと均質な集団の中に身を置くことはできませんものね。
なるほど、なるほど!
受験を経て、高校入学以降に、やっと思うように振る舞えるようになったことがこれまでは不思議でした ^_^;
居心地悪いといっても、それなりに楽しく過ごしたのですが、女子同士の関係にはかなりエネルギーを消耗しました。私はそういうの苦手な方だったので…
それを思うと、娘はもっと伸び伸び楽しく過ごしてほしいなぁと思います。そのために、受験をすることも含め、きちんとサポートしてあげたいなぁ。
大人になってからどう世間を「泳ぐ」かは個人の志向に合わせていけばいいですけど、やっぱり学校ってそのときは大きいですもんね。いったん入ってしまうと、そこから自由でいるってこともできないし、学校を変えるのも困難。
子どもが、学校という場で日々快適に過ごしつつ、どんどん何かを吸収して成長してるってのは、ほんとにありがたいことです。はなひめも、合ったフィールドにいけたらいいねぇ。
受験はいつやってもやっぱり大変ですけど、その後でないとなかなか快適学校生活が過ごせないってのは、こういうわけなんじゃないかと、大回りして、ようやく整理できました。
公立中の女子の世界はほんとうに大変で、またろうのときもいろいろごたすかしたあげくに、何人か学校に来られなくなっちゃったり、いろいろやってました。もっとも、またろうはクラス内で何が起きてるかまったく理解してなかったみたいですけどね(^^;;
そうですよね~まさに「中受なにそれおいしいの」。
受験をしない人が多い地域では、あんまり詮索されないと思うんですけどね、むしろ。
無関係は無関心、ですね。
国語力向上、ですか?? そんな魔法があったら、こじろうのときにやってましたけどね~
あ、成長とともに格段に向上することがあります。中学受験に間に合わないことも多いですけど。それじゃダメ?? うーん。
遠い昔ですがその感覚はリアルだわ。
JGは確かに女子校のわりに「雑電波」が
強くないので、チャネルが結びやすかったと思う。
(それとは別に、JG波ってのが出てるらしいですけど)
そう考えると、
チャネルを結びにくいたちのセロリマンとしては、
私立男子校という選択は悪くなかったと。
入学2日目から、ものすごい勢いで友だちの名前が出はじめて、
ほっとしております。
息子は中2の頃 まるで恋に落ちたかのようになっていました
共通の話ができる友達と それはイキイキしていて その分野の知識を深めていました
彼にそんな友達ができるなんて それだけで試験を受けて学校に入った甲斐があると思ったものです
自分にとって 素晴らしい友達に出会いやすい環境が一番かなぁと 私も思います
やっぱりそれを知っていると、子供にも与えてあげたくなりますよね。
その時間が一生の自分へのお金で買えない宝物になっていく気がします。
勿論親はかなりの額を支出していくのですが(^^;)
あとでほしいと思っても取り戻せないしね。
ある意味、結婚相手より心許せる相手かもしれない(別に不仲とかではなくてね)
それと、mimiiさんという方がいらっしゃいます。
私とは別人です。アンダンテさん、mimiiさんまぎらわしくてごめんなさい。
JGは生徒同士の「チャネル」力に頼って教育してましたよね~まぁそれが一番だいじなとこかなとも思うわけですけど。
> 入学2日目から、ものすごい勢いで友だちの名前が出はじめて、
> ほっとしております。
楽しい春ですねぇ♪
そう、あれはやっぱり「恋」ですね。
存分に「恋」ができる環境に入れるなら、中学受験をした甲斐があるというものです。別に、中高一貫校のほうがよい大学に入れると思って入れるわけじゃないですよ。だってそれはそうとも限りませんからね(笑)
中学高校の六年間って大きいですよね。
もちろん、小学校の六年間だって大きいんですけど…ちょっと意味は違うかな。一生の(精神面の)土台部分。
お金で買えない宝物でもあるし、でもそれを買うのにお金もいるのよね(^^;; きょうび、それはそれで大きいことだから。
おぉ、まったく私と同じ転校パターンですね。
公立中の女子のパワーゲームというのは、ほんとにすごくて、あんたらほかにやることないんかいというくらい(^^;;
のびのび「チャネル」が結べる平和な環境はやっぱり、ありがたいものですね。女子校でなきゃいけないとは思わないけど、やっぱりなんとなく女子校のほうがやりやすいと思ってしまいます。中学のころって、男子は幼稚で役に立たないし(笑)